読むワークショップの感想届きました!
読むワークショップに真剣に取り組んでくれた一人の学生の方から感想が届きました!
「読む観察ワークショップを終えての感想」
はじめに
2025年2月、福岡の糸島で手塚さんに読む観察ワークショップの冊子をいただき、兵庫県に
帰ってから「モニター体験者」ということで50日間をかけて観察する日々が始まった。その後、5日間コースの方も送っていただき、合計2つのコースをやり終えた。
読む観察ワークショップを終えた全体の感想は「自分の感じたことに素直になって生きることができるようになった」。また、「不快に感じることができなくなった」。これは自分の人生にとってとても大きな変化だった。それによって自分が本当は何がしたいのか、したくないのかがよく分かるようになって、生きていることを実感する時間がとても多くなった。ワークショップの最後には、「踊る」という感覚を強く意識するようになった。ただ、それは世間一般のいわゆる「踊る」という感覚とは全く違うものなので、それは一体どのような感覚なのか。どのようにして「観察」から「踊り」になっていったのか。それがどうやって生きるのを少し楽にしてくれたのか。こういったことを書いていこうと思う。
1.「関わり」に意識をおいてみると楽になった
読む観察ワークショップ50日コースは、まず呼吸の観察、次に体のパーツ一つ一つの観察、そして全身の観察、というふうに進んでいく。
私の場合、一番最初の「呼吸の観察」だけで体の状態は大きく変わった。ストレスを感じている時や緊張状態の時、呼吸が浅くなっている事に気が付き、その時呼吸を意識することで、緊張やストレスも緩和されていったのだ。呼吸が体の状態にどれだけ影響を与えるのかを実感することができた。
そうした豊かな気づきをくれる体の観察が一通り終わると、次は周囲の環境や人との「関わり」を観察するワークへと移行していく。この「関わりの観察」で私はとても体が楽になっていった。このワークは、自分がどう動きたいかとか、何をしたいか、という動機が、体と周囲の環境との「関わり」から発生していることに気付かせてくれた。すると自分の体の範囲が、周囲へと広がっていく感覚を持つようになり、不思議と気分が軽くなっていくのだ。これは本当に驚くほど変化があった。
2.「観察」を習慣にすることで起こる変化
このコースは50日間連続でワークを続けるので、毎日の仕事の隙間にできるような軽めの
ワークで構成されており、無理なく楽しく続けることができたのもよかった。そうして毎日「観察」をする習慣がついたことで、読むワークショップが終わってからの人生を風通しの良いものにしてくれている。
「観察」という言葉が、普段使う意味とはまた違う、手塚さん独自のニュアンスを含むものなので、手塚さんの言う観察ってなんだろう...。と正解探しをしてしまったり、採点されている気分になってしまうときもあった。しかし、「観察」の感覚を持ち続けていると、手塚さんの意図や演出を汲み取る、みたいな連鎖から、自分の心地よさのために観察をする、というように動機の重心が移っていった。「観察」とは、すべての固定された視点(もちろん手塚さんの意図からも)からするっと身をかわして別の足場に飛び移り続ける動きを伴って、「自分の体と周囲との関わり」という勝手に動いていく不思議ななにかを眺めて面白がる行為なんだな、と自分なりに言語化できるようになった。
これまで自分が何がしたいかわからないけど、ぼんやりとこれをやらなきゃいけない気がして苦しい、みたいなことが多かった。そういう時に観察をすることで、やみくもな動機や、ぼんやりとした不安や辛さの、まるでせまい個室のような息苦しさの外に出て自分を眺めてあげることができ
るようになる。そしてそんな自分を愛でてあげることができるようになったのはとても大きな変化だった。「愛でる」というのは「客観的な評価」とは違っていて、間違っているか正しいかはどうでもいい。こういった習慣ができていったことで、自分が気持ち良いと感じることはなんなのか、逆に気持ち悪くてやりたくないことは何なのか、その区別がつくようになった。
3.「観察」することで「踊り」に気がつく
5日間コースでは、観察をすることからパフォーマンスを立ち上げるワークが中心になってい
た。
机の上のものを「取る」という行為と「取らない」という行為を同時に行ったり、「手のひらに目があって、そこから世界を見る」というように、真剣にやると体が困惑して変なふうに動いてしまう指示が続く。こうした矛盾した状況に置かれた体を観察していると、体が持つ面白い「特性」がわかってきた。体は指示に対して反発もしているし、迎合もしようとしている、ということだ。動きたいままに動こうともするし、それに対して反発もする。自分の体は「調和」と「反発」という異なる特性を共存させているのだった。
体の観察とほぼ同時期に自宅で畑を耕し始めたので、畑の観察を体の観察と並行して行って
いたのだが、この矛盾した特性を持つという点で、畑と体はとても似ていた。虫によって受粉してもらい野菜が実る一方、実を食べる虫を殺したりもする。激しくぶつかり合い拮抗することと穏やかに共存することは不思議に混ざり合っていて、それがある流れのようなものを持って「自動化」していく。すると世界も自分もまるごと全部が「踊り」となって、意識が周囲に拡散していく。そのとき自分の体に新鮮な風が吹き込んできたような、言いしれない気持ちよさを感じることができる。
観察をしたことで、世界そのものの「踊り」を認識するようになった。その「踊り」は一見ガタガタだし決まった調和もなく「美しい」とは言えないものだけど、しかし、だからこそとても美しい、と私は感じる。
4.観察をしていたら、独自の活動が芽生えた
また、読む観察ワークショップを行う傍ら、自分自身の創作活動を改めてじっくりと観察していくことができた。その結果、自分がずっと「声」から「言葉」が生まれていく過程に惹かれていたのだと気がついた。そのため現在は「声」に焦点を当てて創作を続けている。読む観察ワークショップによって「観察」を習慣にすることで、必然的にそれぞれの体験者独自の視点をもった多様な活動が展開されることになれば、それはとても面白いことだと思う。
さいごに
私が体験した読む観察ワークショップは、とても楽しかった。ワーク自体が楽しい、ということもあるのだが、それ以上にワークを応用して日常生活を遊びにしてしまうことができるのが楽しい。
観察という行為は、これができたほうがいいという義務的なものではなく、世界を舞台に遊んで楽しむための、おもちゃのようなものだとわかった。ぜひ、多くの人とこの遊びを共有して楽しみたいと思う。
山田淳也
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